目黒会ロゴ
検索方法説明
問い合わせ グッズ販売 関連リンク集 情報セキューリティ方針 サイトマップ
目黒会報/主要な記事/会報15-3号私の目黒会の思い出

目黒会報の主要な記事15-3号
私の目黒会の思い出
(目黒会の人脈)

前目黒会専務理事  
近藤 俊雄(33B)

 私の目黒会での役員としての関りの時期は、昭和61年5月から平成11年5月までであるので、広神三木雄(33T)前目黒会会長、大谷哲郎(34T)前目黒会副会長らと、ほぼ同じ時期を過ごしたといえる。両氏は目黒会会報(14-3号)の同窓会創立60周年記年特集記事の中で両氏の目黒会の活動について詳しく述べている。そこで私はその間の目黒会活動を正会員増強という視点から、寄与した人を中心に語りたい。尚、敬称は省略した。


1)理事時代(昭和61年〜平成元年)
 昭和60年前後ごろから、目黒会会員比率即ち旧制卒が減少し学卒者が増えていく状況にあって、これからはむしろ増加していく学卒を中心にして、目黒会を運営・発展させようと活発な議論が重ねられていた。その結果、昭和61年の第43回定期総会は、鈴木豪生(16.本科、故人)会長及び小祝政夫(19.一普、故人)、重山英明(29B)、関西支部の高田廣夫(19.一普)の3名の副会長と西澤良地(32R)専務理事の下に、役員・理事数22名から新理事を一挙に15名増やした合計37名を承認した。そのような時、私も理事に指名され、目黒会への関わりのスタートの年となった。同じ年、前田隆正(30R)、上原佑一(30R)、大谷哲郎(34T)等も新理事として加わった。目黒会の発展の第一は正会員の増加にあるとして、昭和61年度4月の会費納入者(以下正会員という)3,054名を可及的速やかに5,000名に増強しようと目標をたて、新理事参加による活性化論議などの展開を図り、また電算化の導入により会員資料の整備を促進するとする、新たな目黒会の飛躍を誓う記念すべき年となった。6月には高輪荘(三菱電機寮)で顔合わせの会が開かれ、西澤専務理事の司会により各自の自己紹介を含めて目黒会の団結、発展を誓った。その西澤は最近号の会報(15-1号)に‘富士山気象レーダーと目黒会OB’について執筆している。当時の会合場所は、 常任理事会は赤坂にある(株)移動無線企画(西澤専務理事の出向先)、理事会は機械振興会館、懇親会は上記高輪荘で行われていた。議論の果てに意見が詰まった時に、“それはおかしいのではないでしょうか”と飄々と意見を吐く理事の小崎善章(32R、故人)の顔と声が今でも心に残る。小崎は、例の昭和55年のJAL機羽田沖不時着事件の際に航空機関士として乗機しており“機長、どうしたのですか”の言葉により当時世間で有名になった人である。事故の病癒えて目黒会発展のために尽くしていたのである。残念ながら先年故人となられた。又、小田原敏介(19一高1期)が昭和57年から事務局長として困難な目黒会再建に尽くしていた。論議が過去のことに触れると小田原はその経過に対しよどみなく説明が出来る、まさに目黒会の生き字引として活躍する必要不可欠の人であった。熱血の人であり、冷静な判断力の持ち主の人でもあった。嘗て、(株)商船三井に勤務していた折、船舶通信士組合で通信士の待遇改善などに尽力したその時の経験が大いに生きていたに違いない。現在も小田原は時々相談に駆り出されているようである。昭和63年、小田原は会員資料整備の専任となり、新たに事務局長として瀬川勇蔵(29R)が指名された。瀬川は海軍の予科練に合格、呉で特殊潜航艇の訓練を受けていた時、終戦を迎えた生き残りの人だけあって、剛直の一方おだやかな性格で周囲から信頼され、旧制と新制とを繋ぐ適任の人であった。当時の目黒会事務所は階段教室の前にあるA棟校舎の地下室にあり、通称“穴倉”と呼ばれていた3坪程の狭い室であった。そこで通常は瀬川、小田原と短大生のアルバイト1〜2名、計4名程度で仕事をこなしていたが、特に夏はその暑さで大変であったなあと、今でも思う。現在の、80周年記念会館内にある事務室からするとまさに隔世の感がある。事務所は、平成8年まで置かれ、教室改築のためその後歴史記念館棟に移り、平成12年、オープンした80周年記念会館に置かれることになる。


2)常任理事時代(平成2年〜平成3年)
 平成2年4月、皆の努力にも関らず正会員は4,678名に留まっていた。5月の定期総会は、会長に廣神三木雄、副会長に高橋甫(28R)を新任とし、副会長の前田、高田、専務理事西澤を留任とした。私は常任理事に指名された。目黒会は一層の会の拡大を図るため組織率強化を目指し、理事を40名から50名に、常任理事は5名から7名に増員の決定をした。正会員数の目標は6,000名とした。今までの目黒会と大学との関係は海上通信研究会の開催、卒業アルバムの作成などが出来る精一杯の事であった。しかし、目黒会の存在の重要性を理解している角田学長の意思は学校側に大きな影響を与え大学側との意思疎通が急速に進みつつあった。更に、徐々にではあるが目黒会の財政健全化が進むことによって、具体的な活動が可能になってきた。大学側と協議してきた国際交流会館に暖炉などの寄付や、また育英奨学・学術研究助成金の拠出の件などが平成3年に具体化、実行され始めた。
 平成3年、正会員は5,063名となったが、2,000名を増加するのに5年を要したことになる。


3)専務理事時代(平成4年〜平成9年)
 平成4年4月、正会員数は5,657名になった。事務局長は瀬川から望月真に引き継がれた。私は専務理事に指名された。同時に私は目黒会報の編集委員も兼ねた。この年、共同研究センターとの共催による、産業界と連携を深めるリフレッシュセミナー第1回(平成8年に研究開発セミナーと改称された)が開催された。また、大学との協議の結果、設けられた学生支援の一環として優秀な卒業生を対象とする第1回目黒会賞が、平成5年3月の卒業式当日、22名に授与された。大学との連携強化のひとつとして記念すべき一里塚となった。
 平成5年4月、正会員数は5,978名になった。依然として目黒会の財政状態は、厳しく、多くの課題、問題特に財政の健全化を解決する必要があった。そこで廣神会長は、目黒会の発展と効率的運営を図るために専門委員会(担当主査制度)の設置を提案し、承認された。当時の担当主査は以下の通りであった。財務委員会担当は、厳しいけれど明確な強い意思を持った水澤進(33T)、組織強化委員会担当は、バランス感覚抜群で精力的行動をとる大谷哲郎、会報委員会担当は、多彩な経験の下に柔軟な発想をする藤岡宏衛(33 T)、行事委員会担当は、広い人脈を持ち、豊富なアイディアの持ち主の前田隆正、名簿委員会担当は、正確に物事を判断し行動をとる理論家大内一浩(36B)、学術研究会担当は、頭脳明晰であり、粘り強さの岡田安人(39T)、支部育成・海上通信研究会は、学卒一回生の目黒会活動のベテラン高橋甫及び共同研究センター担当は私である。それぞれの委員会ではどのように活動を進めるか熱心な討議が重ねられていた。会報委員会は会報を読み易くするために従来の新聞形式からB5版16ページに改め、紙面の充実を図った。望月事務局長は目黒会の通常の業務はもとより、広く同窓会の必要性を訴え、大学との関係修復が大切と考え学長との懇談企画を始め、学校、学生課、卒業生、在学生の間の情報を集め、目黒会存在の認知に地道な努力を続けていた。目黒会の会合の場所は新年会については従前と同じ新丸の内ビルにあるポールスター、理事会/常任理事会は機械振興会館、懇親会は大内一浩の縁で長原会館(松下電器)の開催が常となっていた。

Copyright 2003 Megurokai,All Rights Reserved
このページの先頭へ戻る